代表挨拶

プロフィール

【幼少時代】自然豊かな環境でのびのび育つ

1991年5月
広島県廿日市市佐伯町で生まれる。
坂本竜馬と勝海舟から一文字ずつ取って
竜海(たつみ)と命名。

優等生というより元気いっぱいの悪ガキで
イタズラをしては先生によく怒られていた。
小学校3年生の頃友達に誘われて野球を始める。

【広商野球部時代】栄光からの転落

2006年15歳
名門野球部のある広島商業高校に入学する。
野球部に入り朝練や厳しいトレーニングを地道に積む。
部員が100人を超える中で2年生の秋にレギュラーに選ばれる。
試合で結果を出そうと意気込む。
しかし、県大会の広陵高校戦で重要な場面でエラーをしてしまう。
結局、試合も負けてしまい、監督に「お前はもう使えないから荷物をまとめて帰れ」と言い渡された。
それ以降、しばらくレギュラーの実戦的な練習はさせてもらえなくなる。
外野でランニングをし、1年生と一緒に玉拾いや基礎的な練習をする日々が続く。
中学校時代は高校から声がかかるほど活躍して、自信もあり野球を続けたいという意欲もあったが、これでは試合に出るどころではないと落ち込む。
精神的にどうにもならないような焦燥感にかられ、もう野球を辞めたいと思い悩む。

 

誰もやりたがらないことに活路を見出す
3年生になり、レギュラー選手としてグランドに立てないことを悟ったが、ベンチ入りはどうしても諦めることができなかった。
この状況でどうしたらベンチに入れるかを考える。そこでコーチャーの勉強と練習を始める。
(*コーチャーとは走者や打者に指示を与える役。1塁と3塁に配置される。
特に3塁コーチャーは試合の得点に直接関わる大事な判断が求められる)

練習試合の時に同級生が練習に励む中、コーチャーズボックスに向かうのはすごく嫌だった。
まして、監督が自分の努力に気がついてベンチ入りメンバーに選出してもらえるというアテもなかった。
それでもなんとか最後の切符を掴もうと地道に努力を続ける。
ベンチ入りメンバーの発表の日、20人中の20番目で名前が呼ばれた。
一度監督の不興を買った自分が認められたことは感無量だった。
最後の夏は3塁コーチャーとしてグランドに立ち仲間の活躍を支えた。

【消防隊員時代】毎日地味な点検業務が続く

2009年18歳
高校卒業後は大学で野球をやりたいと思っていたが、諸事情があり大学進学は断念する。
春から部活の早朝練習と合わせて消防士を目指して公務員試験の勉強も始める。

朝4時から試験勉強、6時から野球の朝練、放課後も練習をして22時ごろ帰宅。
試験勉強をしてまた4時に起きるハードスケジュールを自分に課す。
その甲斐があって、競争率10倍超えという難関を突破し、合格することができた。
春まではほとんど勉強をしておらず、ろくでもない成績だったが公務員試験に合格するできたことで自分もやればできると自信がつく。

消防士になっても大きな火事は1年に1回あるかないかくらいで、日々消火栓や建物の消火設備の点検など地味なルーティンワークが続く。

消防士が活躍する場面がないにこしたことはないが、仕事にやりがいが見出せず、新しいことにチャレンジをしたくなる。3年勤めたところで退職を決意する。

【アメリカ旅行】死を覚悟した砂漠横断

2012年 22歳

消防士を退職した後、これまで、野球と仕事に追われて世間のことを何も知らず、見聞を広めるために
2ヶ月アメリカ旅行に出かけた。
ただ単に観光地を巡るだけでは面白くないので、英語は喋れないがロサンゼルスからニューヨークまで自転車で横断することにする。
3日分の着替えと、テントが入ったリュックを背負い、自転車を持ってロサンゼルスに到着。
初日からトラブル続きでホテルに宿泊できない日はホームレスに紛れて寝るなど日本ではできない経験をする。

特に大変だったのは砂漠の横断だった。
ラスベガスからアリゾナ州のフェニックスに行く途中に200kmの砂漠がある。砂漠の真ん中に道路が一本真っ直ぐ伸びていて、周りには自分より背の高いサボテンが生えていた。
200kmもあれば、途中で何かお店があるだろうと、水や食料を十分に持たずに砂漠を走り出す。
砂漠の日中は30度以上まで気温が上がり、夜は15度近く冷え込むため、熱中症になり、風邪も引いて体調が悪化する。
湿度が低く、唇が倍くらいに膨れてカサカサになり、目も真っ赤に充血してとうとう道の真ん中で倒れてしまう。
水や食料も尽きて進むことも戻ることもできなくなった。周りにあるのは砂だけ、車も通らない絶望的な状況で丸一日倒れていて、泣きながら死を覚悟する。

夜が明けた時にトラックが走ってきたので夢中で手を振る。
するとトラックが停まって陽気なおじさんが降りてきてくれた。
言葉は通じないが、事情を察してもらうことができ、九死に一生を得る。
70km先の一番近いカフェまで送ってもらい食事をご馳走になる。
そこで食料を大量に買い込んで旅を続け、ニューヨークに到着することができた。

【電気工事の修行】頭を下げて教えを乞う

帰国後父の電設資材専門商社に就職。
最初の1年は朝5時に倉庫に行き、拭き掃除をしながら商品の名前を覚えて、業界の仕組みや流れを把握することに努めた。
野球部の時に道具の整理や掃除をしていた経験が役に立つ。

2019年 28歳
現在の材料の仕入れ販売だけでなく、会社の新たな収益の柱を作るべく、電気工事士として現場に出ることを決心する。
施工の技術を学ぶために知人に紹介してもらい東京の新築工事に一人でいく。
数百人の職人さんがいる中に、何もできない状態で現場に入る。とにかくそこにいる職人さんを捕まえて
「こういう事情なので技術を教えて下さい」と頭を下げてお願いした。誰も知り合いがいない中で邪険に扱われることもあったが、頭を下げながら東京~岡山~山口の現場を渡り歩き、3年間技術を学んだ。

広島に帰ってきてからも同じことで、現場に行っては職人さんに頭を下げて教えを乞うことを繰り返す。
電気工事は10年で一人前と言われるので、5年たって(2024年時点)ようやく半分まで来ることができた。

2023年父親が体調を崩したのをきっかけに社長を交代。
現在は直属の従業員2人と広島市内の現場を忙しく飛び回っている。

社長インタビュー

広商野球部時代に辛い思いをされたのですね?

今でも思い出すのが嫌なくらい苦い経験でした。
ただ、社会に出て感じたのは、人生は順調な時ばかりではなく、突然のトラブルで物事が思い通りに進まなくなることもあるということです。あの経験を通じて誰もやらないこと、やりたくないことにチャレンジすることが結果的に大きなチャンスを掴むきっかけになることがわかりました。「生き道」の見つけ方が身についたと実感しています。

アメリカ旅行で死を覚悟するほどの経験をされて気がついたことは?

人間は不思議なもので、私は本当に凄まじい反抗期だったのですが、死を覚悟した時は本当にお母さんに申し訳ないと思いました。よく人が死ぬ時に「お母さん」って呼ぶと聞きますが、自分もわんわん泣きながら「お母さん!」って心の底から叫んでいました。命の危機に直面すると本当に大切なものに気づくのだなと思いました。

もう一つ強く感じたのは「日本で死ぬことはない」ということです。事故や病気は別として日本にいる限り基本的に命を脅かされることはありません。
安定した給料がもらえる公務員から民間の会社に行くことはやはり不安がありました。
当時は21歳でしたから「やってやる」という気持ちもありましたが、半分は「できるかな」という未知の世界への恐れもありました。
でも、死を覚悟したことで腹を括ることができました。「日本で死ぬことはない。あとはどうするかだ」と覚悟が決まり、そこから迷わずに進むことができたのです。
東京の仕事に一人で行った時も、「食べ物さえあれば何とかなる」と自分を奮い立たせていました。
死を覚悟したあの経験が私の行動を支える原動力になっています。

モットーとしていることは?

「知識を知るだけでなく、実際に体を動かして経験すること」です。
知っているのと実際に自分で物事を体感したことがある人とではこれから雲泥の差が出てくると感じています。
私は自分で実際にやってみてコツを覚えて身につけて行くことは大事なことだと思っています。
私は富士山に6回程登りましたが、子どもたちも大きくなったら富士山に連れて行くつもりです。
日本一高い山だということは誰でも知っていることですが、そのスケールの大きさや自然の壮大さは現場で体感してみないとわかりません。たとえ山頂まで辿り着けなかったとしてもその場に行ってみる、体で感じるのは大切なことだと思っています。
ですから、従業員にも「現場で知らない仕事もやってみないとダメだよ」と言っています。
新しいことに挑戦することで得られるスキルや知識は必ず自分の支えになります。私もそうやって成長してきたからです。

経営で心掛けていることは?

経営者として一番大事なことは「適正利益を確保すること」だと考えています。
父が「会社のお金をしっかり管理しなさい」と口が酸っぱくなるほど言っていましたので会社の数字はよく見ています。幸い、広商時代に簿記を習ったので、決算書の数字は読めますし、試算表も毎月確認して会社のお金の流れを把握しています。
社長業は簡単ではありませんが、やりがいがあります。従業員と一緒に成長し、発展していく楽しさがあるからです。

これからの建設業界のために目指していることは?

私が最も力を入れたいのは「人材を育成する」ことです。建設業界は慢性的な人手不足で悩んでいます。
ですから若い人が働きたくなるような職場環境づくりを目指しています。
私の好きな言葉に「三流はお金を残す。二流は仕事を残す。一流は人を残す。」というものがあります。
私は「人を残す」ことができる一流の指導力を持った経営者になりたいと考えています。
人を育成するのは本当に根気と忍耐が必要です。
時には声を荒げたくなることもありますが、「人を残すんだ」と思い出してグッと飲み込んでいます。
人を育成する過程で、私自身も人格を磨くことができています。
また、経営者としてより多くの利益をあげ、それを従業員に還元するサイクルを作ることも重要だと考えています。
給料も業界の水準より多く払えるようになれば今の従業員も長く続けて活躍してくれるのではないかと考えています。従業員が「楽しい」と感じながら働ける環境を整えることで結果的に建設業界の人手不足解消にも貢献したいです。